うぇぶ_ろぐ

にちじょうのこと。

最近、下記の動画ばかり見ている。

仏教学者でもあり僧侶でもある鈴木大拙の事である。

整理のために文字に起こしておく。

 

www.youtube.com

 

「生きる」とは何か?

なぜ「生きるのか?」

人生のテーマであるかもしれないこの疑問。

そうやすやすと答えられるはずもなく、いままで生きてきた。

 

大拙は「何も無いんだよ」と、答える。

 

海外で講義をしていた大拙

「これから時空を超えた話しをします」と言ったそうだ。

時空を超えた仏は計れない。「無限大」や「永遠」を指す。

数える事は出来ない。計算もできない。

「無」の反対は「有」であり計算は「有」の世界でしか

実現できない。

時空を超えた者が仏であるならば仏とは無の存在であるのだ。

仏とは永遠であり無限である事に等しいのだ。

 

 

ではなぜ「仏」や「宗教」が必要なのか?

大拙は「人間は業でな。。。」と答える。

 

他の動物と人間の違いはなんだろう?

「意識」である。

意識は物を考えたり物事を捉える事ができる

人間に有る素晴らしい事なのだ。

けれどもひとつ困ったことが生まれた。

他の動物はブレる事がないのに人間はブレてしまう。

それは主観と客観を生み出してしまったことだという。

主観と客観が分かれるというのは二点できるという事であり

片方が片方を捉えることができるのだ。

上と下、前と後、右と左、善と悪

物事を相対的に見ることが出来るようになった。

物事が二つに分かれるという事はその前があり

それはもともと一つであった。

 

それが「本来」である。

それは私たちの中にもあるのだがそれを見失ってしまうと

「迷い」が生じる

 

24時間意識の中で動くと本来を見失う。

意識とは相対的に見てしまうので

「わたし」と「あなた」を分けてしまう。

分別をするのだ。

ただし前に書いたように2つの前には本来がある。

無分別から分別に分けると相対的になってしまう。

相対になると対立になる。

そこから争いにつながってしまう。

 

「生きながら死人となりて なりはてて 

  思いのままにする わざぞよき」

 

死人には煩悩がなく、欲しがらず、悩みがない様を書いている。

 

自由

自由とはなんでしょう?

ビート族との対談の時に大拙はこう語った。

「君たちは自由をはき違えている」

どうはき違えているかというと

大拙はその場で肘を突き出し曲がらない方向へ曲がると

それは自由なのか?と問うた。

もし曲がらない方向へ肘が曲がるのであればそれは激痛だ。

そんな自由は自由でないと伝えたそうだ。

 

「自由」という字には「自ずから」という字が含まれている。

「自ずから」という「自由」という英語はないそうだ。

自ずからという事がなければ自由はないと彼らに説いたそうだ。

 

自由は外ではなく内に備わっているのだ。

 

無心

ムカデは100本の足を持っている。誰かがムカデにこう言ったそうだ。

ムカデはどの足から歩き始めるのか?

そうするとムカデは「?」と考えたそうだ。

そうするとムカデは動かなくなったそうだ。

これは無心がなくなった話である。

 

 

自分の手足をよく見てほしい。

指は曲がるし手を挙げることだってできる。

これは無心でできるのだが

そこに意識が乗ると上手くできなくなる。

その意識を捨てなければ自由がないのだ。

 

意思には限界がある

なぜならば意思は計っているから

計っている以上無心にはなれない。

 

「スッ」とすればいいんだよ。大拙は語った。

ネコを見てみなさい。

ネコは迷いなくスッと行くぞ。

人間は残念ながらお寺に入らないと出来ないんだ。

 

座禅をするのもの座禅をすることが目的でなく

スッとすることが目的なのだ。

その反復練習が座禅なのだ。

 

私たちは幸せになりたい。

安心決定(あんじんけつじょう)

安心すること自由になること

それを感じるようになれることが仏教である。

自分が自分でよかったと思えることが仏教である。